その写真、本当に子どものためですか?
~「子どものため」に活動する大人が、立ち止まって考えたいこと~
もうすぐ夏休みが終わります。
この時期になると、私は、子どもたちの心のことをいつも以上に考えます。
夏休み明け前後は、子どもの自殺についても改めて考えなければならない時期です。
文部科学省も、児童生徒の自殺は8月後半から増加し、特に長期休業明けの9月1日に多くなる傾向があるとしています。
令和8年7月3日児童生徒の自殺予防に係る取組について(通知)
「学校に行きたくない」
その一言さえ言えずにいる子がいるかもしれない。
いつも通り笑っていても、心の中では必死に何かと闘っている子がいるかもしれない。
友達のこと。
勉強のこと。
家庭のこと。
自分自身のこと。
大人から見れば小さなことに思えても、その子にとっては世界のすべてが真っ暗になるほど大きな悩みかもしれません。
9月1日を前に、そんな子どもたちのことを考えていたときでした。
ふとSNSで目にした「子どものための活動」の投稿に、私は少し立ち止まってしまいました。
活動そのものを否定したいわけではありません。
誰かを批判したいわけでもありません。
ただ、
「子どものため、って何だろう」
と、改めて考えたのです。
今日は、子どもに関わる大人の一人として、そして私自身への問いかけも込めて、少し書いてみたいと思います。
「誰のための写真なんだろう」
世の中には、子どもたちのためにさまざまな活動をしている方がいます。
寄付を募ったり、
必要なものを届けたり、
イベントを開催したり、
子どもたちが少しでも笑顔になれるようにと行動したり。
その行動そのものは、とても尊いことだと思います。
そして、活動を続けていくためには、知ってもらうことも必要です。
寄付をしてくださった方に、
「このように使わせていただきました」
と報告することも大切でしょう。
活動を発信することで、次の支援者が生まれることもあります。
だから、私はSNSで活動を発信することそのものを否定したいわけではありません。
それでも時々、その写真を見ながら、
「この写真は、誰のために必要なんだろう」
と思ってしまうことがあります。
子どもが「大人の善意を証明する存在」になっていないだろうか
特に、さまざまな事情を抱えながら生活している子どもたちに関わるとき、私はとても慎重でありたいと思っています。
子どもたちは、
大人の活動を素晴らしく見せるために存在しているわけではありません。
「こんなにいいことをしました」
と、大人の善意を証明するための存在でもありません。
もちろん、発信している方に、そんな意図はないのかもしれません。
純粋に、
「この活動をもっと知ってほしい」
「協力してくださった方に報告したい」
「支援の輪を広げたい」
という思いなのかもしれません。
だから、他人の気持ちを勝手に決めつけることはしたくありません。
ただ、子どもに関わる活動をする私自身も含めて、ときどき立ち止まって考える必要はあると思うのです。
その発信の主役は、誰になっているだろう。
支援は、見えなくても支援です
誰にも知られなくてもいい。
誰にも褒められなくてもいい。
SNSに写真を載せなくてもいい。
目の前の子どもが少しうれしい気持ちになった。
安心できた。
「自分のことを気にかけてくれる大人がいる」
そう感じることができた。
それだけでも、十分に意味のあることではないでしょうか。
むしろ私は、
誰にも見えないところで行われている支援にこそ、大切なものがある
と思うことがあります。
子どもの話を黙って聞くこと。
学校へ行けない朝、そばにいること。
いつもと少し違う表情に気づくこと。
「どうしたの?」と問い詰めるのではなく、
「話したくなったら聞くよ」
と伝えて待つこと。
そこには写真もありません。
拍手もありません。
SNSの「いいね」もありません。
それでも、一人の子どもの心を守ることにつながるかもしれません。
「報告」と「アピール」の境界線
とはいえ、これは簡単な問題ではありません。
活動を継続するためには、知ってもらう必要があります。
寄付を募ったのであれば、そのお金がどのように使われたのかを説明する責任もあります。
企業や団体であれば、社会貢献活動について公表することもあるでしょう。
だから、
「発信すること=自己満足」
ではありません。
だからこそ、大切なのは「発信するか、しないか」だけではなく、
「どう発信するか」
なのだと思います。
子どもの顔や姿まで出す必要があるのか。
場所が特定される情報は必要なのか。
その子が置かれている事情まで説明する必要があるのか。
子どもたちの姿を見せなくても、購入したものや届けたもの、活動内容を報告する方法はないのか。
子どもの尊厳を守りながら、活動の透明性を伝える方法はないだろうか。
写真を撮る前に。
投稿ボタンを押す前に。
一度だけでも考えてみる。
それだけで発信のあり方は変わるように思います。
本当の子ども支援とは何だろう
私は、
「子どものため」
という言葉を、とても重く感じています。
なぜなら、
「子どものため」と言えば、大人の行動の多くが正しいことのように見えてしまうからです。
でも本当に大切なのは、
大人が何をしてあげたいかではなく、
その子にとって、何が大切なのか。
ではないでしょうか。
支援する大人が主役になってはいけない。
支援を受ける子どもを「かわいそうな存在」として見せる必要もない。
子どもには、その子自身の人生があります。
その尊厳を守るところまで含めて、
私は「子ども支援」なのだと思っています。
私自身にも問い続けたい
こんなことを書きながら、
これは誰か一人に向けた言葉ではないと思っています。
私自身も発信しています。
「子どもの絵」について伝えています。
子どもたちと関わることもあります。
保育園や幼稚園、教育現場で研修をすることもあります。
だからこそ、
これは私自身にも向けなければならない問いです。
「これは、本当に子どものためになっているだろうか」
「自分をよく見せるための発信になっていないだろうか」
「子どもの尊厳を置き去りにしていないだろうか」
人は誰でも、誰かに認めてもらいたい気持ちを持っています。
私にもあります。
だから、その気持ちそのものを否定する必要はないと思います。
ただ、
子どもに関わるときだけは、
自分が認められることよりも、
子どもの尊厳を一番上に置く。
私は、そんな大人でありたいと思っています。
もうすぐ、夏休みが終わります
元気いっぱいに新学期を楽しみにしている子もいるでしょう。
でも、その一方で、
「学校に行きたくない」
「誰にも会いたくない」
そんな気持ちを、誰にも言えずに抱えている子もいるかもしれません。
だから今、私たち大人が本当にしなければならないことは、
「子どものために、こんなことをしています」
と見せることよりも、
目の前の子どもの小さな変化に気づくことなのではないでしょうか。
いつもより口数が少ない。
眠れていない。
食欲がない。
イライラしている。
学校の話になると話題を変える。
そして、
絵や遊びの中に、いつもとは少し違う様子がある。
もちろん、一つの変化だけで何かを決めつける必要はありません。
でも、
「いつもと少し違うな」
と気づいたら、
すぐに答えを求めなくてもいい。
「ここにいるよ」
「話したくなったら聞くよ」
と伝えられる大人がそばにいること。
私は、それも大切な子ども支援だと思っています。
「子どものため」の主役は、いつだって子ども
誰にも写真を撮られない。
SNSにも載らない。
「いいね」もつかない。
誰からも、
「素晴らしい活動ですね」
と言われない。
それでも、
一人の子どもが、
「自分は一人じゃない」
と思えることにつながったなら。
それは、とても大きな支援ではないでしょうか。
9月1日を前に、
子どもの命や心について考えていたからこそ、
私は改めて、
「本当の子ども支援って何だろう」
と考えています。
答えは一つではないと思います。
でも、一つだけ忘れたくないことがあります。
「子どものため」の主役は、いつだって子ども。
大人の実績でも、
大人の評価でも、
大人の満足でもありません。
目の前にいる、その子です。
写真を撮る前に。
発信する前に。
そして何かを「してあげよう」とする前に。
「これは、本当にこの子のためだろうか」
と、一度立ち止まる。
子どもに関わる大人の一人として、
私自身もその問いを持ち続けたいと思います。
そしてこの夏の終わり、
誰にも見えないところで、
一人の子どもの小さな心の声に気づける大人が、
一人でも増えることを願っています。
